2017/03/24

NEON GENESIS EVANGELION / 新世紀エヴァンゲリオン



綾波レイ / Rei Ayanami


きっかけは忘れたが「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ版(1995年放送)をDVDで初めて見たのは10年くらい前のことだった。もともとコミックやアニメの熱心な鑑賞者でもなく、その時々の興味で気に入ったものだけを見る程度の関わり方だったのだが、エヴァについてもそんな流れでの出会いだったのだと思う。

同じ時期に見た「攻殻機動隊」や「イノセンス」などの押井守作品やそれ以前にその緻密な描写や終末的な世界観に惹きつけられて注目していた大友克洋の作品に比較すると絵柄もやや稚拙で緻密さに欠けており、ストーリーやSF的な仕掛けもそれほど凝った感じはしなかったのだが、第一印象として何か妙に感覚を刺激するものがあったことを覚えている。

筑波や精華町の学園都市を彷彿とさせる地方の山奥に分け入って切り拓いたような場所に造られた“第3新東京市”という人工都市とそこで繰り広げられる学校やマンションでのごく普通の疑似日常というアンバラ。それはちょうど「ブレードランナー」や「未来世紀ブラジル」に登場して新鮮な衝撃を与えた未来都市とその内部のレトロ感のアンバラに通じるものがあった。

パイロット(少年少女たち)の中枢神経とエヴァがシンクロして駆動するというアイデア自体はパワードスーツというかなり古くからある概念から発展した様々なロボットやサイボーグものに1980年代に芽生えたサイバー空間やバーチャルリアリティー的な概念が導入されたものとして理解されたが、“使徒”という旧約聖書に由来する巨人たちの出現と人類補完計画などを組み合わせたアダムとイヴ風なストーリー構成はこの物語に一種異質なテーストを与えていたと思う。

そして、何よりもこの物語を他の同種のアニメとは違うものとして印象付けていたのは、登場人物たちの性格とそれらの絡み合いの特異性だったことが今回改めて全編を見直しての感想である。中でも私が最も惹きつけられたのは綾波レイのそれだった。


主人公の碇シンジや葛城ミサト、セカンドチュルドレン(1人称のチャイルドでないところに作者の感覚の拘りがあるようである)の惣流アスカラングレーの性格の原点には親(特に父親)との確執があり、シンジ、ミサト、アスカの性格にはそれぞれかなり隔たりはあるのだが、源流が同じであることがわかる。シンジが代表する性格は傷つきやすくそれゆえ人との接触や関りをなるだけ避けたがるいわゆる“新人類”に始まり“オタク”→“草食系男子”などと呼ばれる系譜を辿って現代に至っている人種である。

綾波レイはそれら主要登場人物たちとは一線を画した特異な存在として描かれている。最初の登場が担架上の包帯だらけで点滴セットという姿であるところも異様だが、その白皙青髪、赤い瞳、痩身の無表情な立ち姿も印象的である。
独り住まいのアパートの部屋は最低限に必要なものしか見当たらず、廃墟のように寒々としている。エヴァ搭乗以外の時の服装はセーラ服であり、しばしば静止した後姿で語る。

綾波レイのもっとも特異な点は、ものごとに対する意欲を見せない点、普通の人々が抱くような様々な欲望のみならず生きること自体に意欲がないように見える点である。にもかかわらず意志(それもかなり強固な意志)を持ち合わせているようなのである。それが何に対する意志であるかは明らかにされないが。現象としては厭世主義に見えるが、いわゆるアクティブ(能動的)な厭世主義ではなくパッシブ(厭世的)な厭世主義とでも言えるものが見えてくる。「綾波は自分の存在を希薄と感じているように見える。ペシミズムとは違う何かをすでに彼女は持っていると思う。同じ14歳とは思えないほどに」(同級生鈴原の言葉)。実際は、レイは使徒リリスとシンジの母ユイの遺伝子を元にして造られたハイブリッドで、物語を通して2回クローンとして生まれ変わっていることが最後に明かされる。感情を表に出さず寡黙で常に無表情なのは「感情の表現の仕方を知らないだけ」(庵野秀明監督の言)ということである。


種明かしはともかくとして、この綾波レイの存在が「新世紀エヴァンゲリオン」に大きな魅力を与えていることは確かである。文明論的にあるいは宮台真司風にサブカルチャー論的な言い方をすると、敗戦 高度経済成長 全共闘運動 燃え尽き症候群 バブル経済とその崩壊と進んで来た戦後日本の文化が行きついた先に生み出されたゴーストが綾波レイだったと言えるのかもしれない。







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