2018/02/11

野菊の如き君なりき / 木下恵介 Keisuke Kinoshita



日本映画の最近

日本映画とは最近とんとご無沙汰である。だいたい10年ほど前からわざわざ映画館に映画を見に行く習慣がなくなって、映画と言えばケーブルテレビの洋画専門チャンネルしか見なくなった。それも無料チャンネルに限られているので、リアルタイムのオンエア作品とはだいぶタイムラグがある。たまに邦画をやっているチャンネルにも目をやることがあるが、目ぼしいものはほとんど見当たらない。きっといい映画は今でもどこかでつくられているのだろうが、こんな怠惰な鑑賞者の目の届くところには現れないのだろう。

もちろん日本映画が駄目と言っているのではない。小津安二郎は日本の監督の中でもっとも外国の監督に影響を与えている監督と思えるが、独特のカメラワークや風景の切り取りなどとともに戦後日本の一時期が持っていた妙に明るいトーンが何故か普遍的に人を惹き付ける力を持っているということだろう。

今ではもう「最近の監督」とは言えないのだろうが、河瀨直美がまだ無名だった頃、ハンドカメラで撮った(奈良と思われる)道を縫うように進んで行くムービをたまたまテレビで見かけて強く惹き付けられたことがあった。その後、『萌の朱雀』が同じ監督の作品と知って自分の感覚の確かさに頷いたものだった。

一方で、最近日本の映画で頻繁に行われているコミックやアニメの実写化にはうんざりしている。他にネタが無いのかと思ってしまう。実際見てみるとほとんどが失敗作に終わっている。文学作品の映画化も過去に数多く行われてきたが、死屍累々たる失敗作の山である。だいたい小説にしろコミックにしろ原作が優れていればいるほどその映画化は原作を台無しにしてしまうことが普通である。それはたぶん原作に含まれる本質や原質を見極めることができずに表面的な図柄や筋だけを追ってしまうという過ちを犯しているからだと思う。

日本映画についてはまた別の機会に語ることにして。
放置していたFACEBOOKの旧アカウントを開いてみたら、いくつか懐かしい書き込みが出てきた。今日はそのうちの一つ(日本映画に関するもの)を紹介することにする。
ここで取り上げた作品は上記原作の映画化で成功した稀有の例の一つであろう。



<以下はFACEBOOKの旧記事からの引用>

2013719

野菊の如き君なりき。 

世にありて ひとたび逢ひし君と云へど 吾が胸のとに 君は消えずも

伊藤佐千夫の『野菊の墓』を初めて映画化した1955年の木下恵介監督作品。映画欄に追加しようと思ったけれど、検索しても出てこないので、ここに載せさせていただきました。

野菊の墓はその後何度も映画化されましたが、この『野菊の如き君なりき』は、伊藤左千夫が自作を仲間の前で読み上げたとき手放しで号泣したという、その思いをもっとも深く忠実に表現しえていて、他の作品を遥かに凌駕した異次元の一作です。

映画は主人公の政夫が年老いて再び思い出の地を訪れ、野菊に埋もれたタミの墓に参るまでの間、回想の形でとつとつと語られる物語りとなっています。
政夫とタミが二人で桑畑を駆けて行くときのローアングルからの長回し、モノクロのみが表現できる光の輝きとコントラストは、二人の青春の一瞬にして二度と訪れることのないアドレッセンスを奇跡的なまでに捉えています。効果的なフェイドアウトと所々に挿入される短歌、すべてが「これしかない」と言える、映画史に残る偉大な作品だと思います。

この映画のためにだけ出現したとも言えるタミ役の有田紀子の可憐さも心に沁みます・・・昔この映画を録画したビデオを持っていて、1か月に1度は見直して(特に二日酔いの土曜の朝などに)、大泣きしていたのですが、そのビデオはある人に貸したまま戻ってこず、もう何年も見ていません。死ぬ前にはもう一度見たいと思っています。







#keisukekinoshita  #木下恵介 #野菊の如き君なりき #日本映画