2017/04/17

WUTHERING HEIGHTS / Emily Brontëの荒野


嵐が丘 アドレセンスの秘蹟


Ⅰ 
エミリー・ブロンテ(Emily Jane Brontë)が生涯(といってもたったの30年ですが)のほとんどを過ごしたハワース(Haworth)を訪れたのは随分以前のことになります。詩集『ブルー』を出版した翌年の秋でした。私はそのころ仕事でしばらくロンドンに滞在していたのですが、スコットランドのエディンバラを用事で訪れた帰りに、ダーリントンの友人のところに1泊して、そこから彼女の車でハワースまで送ってもらいました。

ハワースは、北イングランドの中央、ウェスト・ヨークシャーに広がる荒涼としたぺニンズ・ムーア(Pennines Moor)の中にある寒村で、ワース渓谷を見下ろす丘の上に小じんまりと佇んでいます。村のメインストリートは石畳の急坂で、1kmくらい上っています。両側には古いレンガ造りの民家や商店が並び、一応観光地なので、それなりの賑わいを見せていますが、エミリーが生きていた時代はどんなに暗く陰鬱な通りだったかが想像されます。

そのメインストリートを徒歩で上っていると、所々で建物の並びが途切れて遥か遠くに広がる丘陵が見渡せるのですが、それがちょっと異様な感じを受ける風景なのです。連なる丘のいたるところが(これは後でわかったことなのですが)自然石を積み上げた低い石垣で囲われていて、その囲いが丘陵全体を網の目のように覆っているのです。その後、映画やテレビでヨークシャーなどのイギリスの田舎の風景が映し出される機会も多くなって、そのような光景も日本の一般のひとたちが知るところとなったのですが、そのころは初めて見るような風景で、何か異次元の世界に導き入れられたかのような感覚(体が浮き上がるような感覚)が襲ってきて、少し衝撃を受けたことを覚えています。


Haworthのメインストリート
遠くに広がる丘陵

この坂を上りきったところに、教会とブロンテ姉妹が暮らしていたハワース牧師館(Parsonage)があります。私はその近くの安宿に2日間泊まって、牧師館、ヒースの茂る丘を深く分け入ったところにあるTop Withens(嵐が丘のモデルになった廃墟)、教会、Black Bull Hotel(兄ブランウェルが通ったパブ)などをじっくりと回ってみました。

Top Withensまではムーア(moorはこの地方の言葉で荒野の意味)の中を34キロ歩いたでしょうか。今では記憶が曖昧になっていますが、森の中のブロンテ橋も渡ったように思うので、森も通ったのでしょう。どこかで手に入れた簡略化した地図を頼りに道の無い道を歩き続けたのを覚えています。薄曇りでしたが、最初に広々とした見晴らしのいい場所に出たときはまさに『嵐が丘』に出てくる荒野が目の前に広がり、震えるような感動が体を通り抜けたのを覚えています(陳腐な表現許してください)。どこまでも続く草原、所々に見える剥き出しの岩盤、ヘザー(ヒース)の茂み、吹き渡る荒々しい風・・・・



ヒースの生い茂るムーア

エミリーはいつもこの荒野を歩き回っていたのでしょう。姉妹の中でも背が高く美人だった彼女は男のように颯爽と歩いたといいます。特に、ムーアでは彼女は人が変わったように、生き返ったようになったと伝えられています。

「ブロンテ姉妹はみんな、はにかみやで、村人に会ったりすると無表情で無口で無愛想で、買い物に下りていく坂道(注:上に書いた坂道だと思います)ではしばしば顔を伏せてすれ違ったというが、ヒースではそういうカタツムリのように内部に尻込みする自我が何の気がねなしに表面にでてくることができたらしい。エミリーは特に人が変わったように活発になったそうである。15歳のときだが、シャーロットの友人エレン・ナッシーが訪ねていったときの回想によると、エミリーは散歩に出て“水の集まり”と名づけた水たまりに来ると、たちまち小さい子どものようにはしゃぎはじめ、片手でオタマジャクシを追いたてながら、弱虫さんねとか、勇気がある子だわと言って、むちゅうに話を作りだして遊んでいた。おそらく彼女は幼少の頃すでに、ハワースの荒野と自分との心理的な、ほとんど精神的な、密接な関係を成立させてしまっていたのだろう。その関係はたぶん、すでに自然との調和感、融和感、一体感といった深さにまで到達してしまっていたのかもしれない」(野中涼「エミリーの荒野」ユリイカ 1980.2

彼女は、姉のシャーロット(Charlotte)や妹のアン(Anne)と違って、一生の間でハワースを離れたのは合計しても2年とちょっと、そのうち都会と言えるところにいたのはブリュッセルの寄宿学校に生徒としていた10ヶ月だけで、生涯(再びいいますが、たったの30年)のほとんどは、荒涼として暗く閉ざされたムーアに囲まれたこの僻村で過ごしたのです。

『嵐が丘』に描かれたようなこの地方の気候に忠実にというところでしょうか、Top Withensに到着するころには、あたりは10メートルさきも定かでないほどの霧に包まれました。霧の中にうっすらと浮かび上がった中世の石造りの農家の廃墟は、屋根も崩れ落ちて外郭の壁だけが残されていました。それは小説を読んで想像していたよりもずっと小さい建物でした。たぶんそれは嵐が丘のモデルではあっても、エミリーの想像力の中で大きく変形されたのでしょう。ただ、絶え間ない風当たり(wuthering)の強さのために、「屋敷のはずれにいじけたように生えている数本のもみの木のひどい傾き方、それから太陽に向かって恵みをこうているように、同じ方向に枝を延ばしているわびしげないばらの木の列などを見ると、丘の背を吹き越えてくる北風がどんなに強いものか」と小説の中で描かれた風景はそのままでありました。私は、誰もいない廃墟の中で、霧に濡れながら30分ほど佇み続けました。


Top Withens
廃墟の内部



Ⅱ 
『嵐が丘』は、大袈裟ではなく、私の運命を決定的に方向付けた作品です。10年前に周りの誰もが驚いた無謀な退職を断行して行末のわからない冒険を始めたのも、もとを糾せば、嘗てこの作品の圧倒的な力に脳漿を突き抜かれたときに運命付けられていたのかもしれません。



Emily Jane BrontëNational Portrait Gallery蔵)

この作品は多くの映画作家にも影響を与えたもようで、古くはローレンス・オリビエとマール・オベロンのものから、私が見ただけでも5本以上の『嵐が丘』が存在しますが、どれもこれも期待して見ただけに、完全にがっかりさせられました。最初のローレンス・オリビエのものが辛うじて暗い情念の風景化に少しだけ成功してはいますが、それ以外の作品はすべて原作とはまったく相容れない別のものに作り上げられています。問題点は無数にあるのですが、まず最初に、なによりもこの物語の要はそこに描かれた“adolescence”であることをどの作家もみごとに見落としているということです。ムーア(荒野)で幼年期と思春期を二人っきりで過ごし、ムーアと一体となったヒースクリフとキャシー、これがこの物語の中核です。

物語の冒頭の部分で、嵐が丘に泊まることになった語り手のロックウッドがそこで体験する恐怖のエピソードが語られます。ロックウッドはその夜、ある事情から偶然昔少女時代のキャッシーが使っていた寝室に迷い込みます。その部屋の中央にはオーク材で作られた奇妙な形の箱部屋(小寝室)が据え付けられており、好奇心に駆られたロックウッドはその中に入ってみるのですが、そこで発見したのは板の塗装を引っ搔いて書き込まれたただひとつの名前の繰り返し、キャサリン・アーンショウ、キャサリン・ヒースクリフ、キャサリン・リントンという無数の文字列でした。そして、さらに四半世紀前の日付で「キャサリン・アーンショウ蔵書」と記名されたひどく黴臭い本(聖書)の余白に小さな文字でびっしりと書き込まれたキャシーの日記を見つけます。ロックウッドはその内容に引きずり込まれて読み耽ります。そこにはキャシーとヒースクリフの子ども時代が生き生きと描き出されていたのです。義理の兄のヒンドリーに虐げられるヒースクリフと彼の唯一の理解者キャシー、一家から疎外された2人(この一家自体が世の中から隔絶されているのですが)が荒涼としたムーアを舞台に創造していく2人っきりの世界。

日記を読んでいるうちに眠ってしまったロックウッドは激しい風が窓を叩く音で目覚めます。驚いて窓の外の暗闇を見つめるロックウッド。そこに彼が見たものは・・・・・

という、物語の最初に出てくるにもかかわらず一つのクライマックスを形作っている場面がありますが、そこにはヒースクリフとキャシーの二人の魂の繋がりが幼少期に凝縮してつくりあげられたことが描かれています。




ブロンテ姉妹がその父親のパトリックと住んでいた牧師館はハワース村の丘の頂上にあります。上述の坂を上り詰めたところです。頂上といっても、私の記憶ではそこから先は荒野が続くので、村の中では一番高い場所ではありますが、うねうねと続く丘陵の中腹といったところでしょうか。

ジョージアン様式の石造りの2階建てで、1階には玄関を挟んで両側に2つずつの窓、2階には5つの窓があります。玄関を入ると、右手に父親の牧師の書斎、左手に食堂兼居間があります。この部屋には机のほかに黒い長椅子があり目に付きます。そしてこの椅子がエミリーが亡くなった場所なのです。「『嵐が丘』出版後ちょうど一年目の十二月のある寒い日、二階からよろめくように下りてきて、この長いすに坐り、間もなく息を引き取った。かつて愚痴や不平をこぼしたこともなく、苦痛一つ訴えたこともなく、医者にかかることさえも拒んで、エミリーは三十歳の生涯を閉じた」(飯島淳秀「嵐が丘を訪ねて」)



Emily終焉の長椅子

階段を上って2階に行くと、正面に小さな部屋があります。この部屋ははじめ子供部屋で、少女時代のブロンテ姉妹が木製の兵隊人形で遊び、アングリアとゴンダルの空想の世界を創造した場所であると思われます。後にここはエミリーの部屋になったということですから、『嵐が丘』もこの部屋で書かれ創り出されたのかもしれません。窓が1つしかない部屋からは教会墓地と教会の塔が見えるだけです。

この教会墓地には、立てられた墓石もありますが、多くが(かなりの数です)まるで風になぎ倒されたかのように横たわっているのです。それを見ているときに、イギリス人とおもわれる男の人が連れの人に向かって、「みんな若すぎる!」と叫んでいるのが聞こえました。当時(18世紀、19世紀)のこの地方では、栄養や医療の事情から若くして亡くなる人が多かったのでしょう。


牧師館と墓地

教会には日を改めて、次の日の早朝に行ってみました。こじんまりとした石造りの教会で、街路から少し階段を上ると小さな木戸があってそれが入口です。誰もいない内部は薄暗くひんやりとしていました。礼拝の人が坐る椅子の間を抜けて、前方の内陣の所まで至りついたとき、足元に少し古色を帯びた金色の板を見つけました。そこには、黒い色で彫られた文字があり、Emily Jane Brontëの文字が読み取れました。それで、この下にエミリーが眠っていることがわかりました。私は「やっと会えましたね」と心の中でつぶやきました。


30年の生涯のほとんどをこの閉ざされた荒野の中の僻村で暮らし、楽しみも何も無い日常の中で、(たぶん)一度の恋愛も経験せずに、ムーアとの交感の中だけで生きて死んでいったエミリー。しかし、彼女の残した唯一の作品『嵐が丘』はほとんど奇跡ともいえる輝きを今も放っています。




Emilyの墓碑銘
ブロンテ家の墓所(柱の下)



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